昭和五十四年九月十二日 朝の御理解
御神訓 真の道の心得
一、懐妊の時腹帯をするより心に真の帯をせよ
腹帯をするより心に真の帯をせよ、真の帯を締めたらどういう事になるかと言うと、一般には産みの苦しみと言うて、苦しみはもうつき物のように申します。けれども、教祖様はまたの御理解に隣知らずの安産、と言うておられます。隣知らずの安産のおかげが頂かれる、ね。私共の観念の中には、もうお産というものは、もうそれこそ青竹を握りつぶすような勢いと苦しみが伴うものだ、と観念しておる。ところが、それは過去のいうならば妊娠のおかげを頂いたら、何とかに腹帯かけ、ですかね腹帯をするようにするが良い、とされておる。それを教祖様は腹帯はいらん、と。
私の方の家内なんかは、腹帯を致しませんでした。まあ後信心を、特に手篤く頂くようになって帰って、こちら四名はみんなそうでした。うえ三名はもう難産に近かった。若先生なんかは、もう仮死状態でしたからね、もう暫くは死んだものと思うとるから、家内の方の処理だけをしよるから、もうほうくらかしちやったんですね、けれども、まあおかげを頂いて、今日のおかげを頂いとる訳ですけれども、豊美なんかもそうでした。もう難産の証拠に頭がこんなに長かったんですね、処が愛子は逆産でして、丁度お腹の中に入れて、あちらから引き上げて帰って参りました。だから、いろいろ無理がいっとったんでしょうが、処が丁度あちらでかかっておりましたお産婆さんが、産まれる前の日に尋ねて来たんです、椛目の方へ、それでまあおかげを頂いて、その人が逆産専門と言われる位の人でしたけれども、まあこれは大変な安産でしたけれども。
これは私が、あのう催しが始まってから、善導寺にお届けにまいりましたら丁度、お産の御理解がここにこう下げてありますもんね、カレンダーが、善導寺は。丁度そのハア-、今日は産まれるばいな、と朝の御祈念の時思うて帰って来ましたら、そげな帰って来たらすぐ又あちらへお参りしましたが、御祈念中に、あの時やっぱりお知らせのはしりと言うでしょうか、鶏が時をつぐる声を聞いたんです、あいた、これは今産まれたかな、と思うて帰りましたら、その産婆さんの御主人が途中まで迎えに来とりました。勿体島のにきまで、私が帰って来よると見てから、大坪さん産まれた、産まれたち、言うちから、言うてくれましたような、もう四人目からは家内に言わせますと快感を覚えたと言うとります、産まれるたんびんに、確かに隣知らずの安産です。
だから、真の信心の帯をしたわけでもないけれども、真の信心にならねばと言う、まあ本気での信心が、私共夫婦に段々出来てきよったという事でございましょうか。真の帯をする、例えば帯をしないという事だけでも、ある意味では度胸がいりましたですね。それでも今、産婦人科の先生に聞きますと、大体腹帯をしない方がよい、という学説が変わってきたと言うことですね。だから教祖様は、もう今迄のしきたりと言うような因習というか、そういうものを、かなぐり捨てて、神様の教えのまにまに教えを説いておられる、という事がこの他の上にも感じられます。
そういう意味で、金光教の信心は宗教以前の宗教だと言うふうに言われるわけですね。私は今朝、キリスト教で言う十字架ですね、あの十字架が、まともなプラスという字ね、十という字に変わっていくところを頂いた。十字架と言うのは下が長いでしょ、それを一様に横棒と縦棒が一様に、いうなら十と言う字に変わっていくところを頂いたんです。いま合楽で言われておる合楽のギリギリの信心はです、今迄いうならば難儀、こまった事、めぐり、ま、因縁じゃろう、そういう罪をつくっとったじゃろう、と言ったような頂き方が、もう根底からくつがえされとるですね。
「小人閑居すれば不善をなす」と、言ったようなみ教を頂いたですね。そして私共は、聖人、聖と言ったようなものを目指すのではなくて、先ず私共が小人の自覚に立つ事だと、閑居すれば不善をなす部類の方の私達だと、何万人に一人あるか分からないような、いうならば聖人とか君子、と言うようなものではなくてね、もう生神金光大神を目指すのだと、生神金光大神とは人間がね、人間らしう生きていく行き方の中に、その生神金光大神にならせて頂く手掛かりが容易う説いてある、しかもこの世だけではない、それをあの世までも続けてその、生神を目指していけれる手立てが合楽理念には説いてある、と言うふうに皆さんにも聞いて頂いとる訳ですね。
そして私共が、「小人閑居して不善をなす」と言う、その不善と思うておった事はそれはね、むしろ御恩恵のもの、私共人間に与えられておる特別のおかげである、という事が説かれてありますね。これが罪になろう、これがめぐりの元になろう、と言ったような思い方が、むしろそこには合掌して受けて行けれる、そのかわり全ての事に御の字をつけて、と言うふうに説かれます。もう大変なそれこそ、ここだけでも過去の宗教が、いうならば改革されなければならない、いうなら、革命という言葉で言うと一寸激しいようですけれども、いうなら宗教革命と言うても、だからいいのです。
そして宗教以前の宗教、いうならば本当な事、いうなら、今日の御理解でいうなら真の帯をするという事です。過去の因習をいうならば振り捨てて、そして本当な事になっていく、そこのところがです、いうなら、観念の中に私共がありましたから、それを振り捨てるのには少し未練気と言うわけでもないけれども、ゆはり度胸がいるという感じが致します。よく申します、難儀なことは、も、とにかく人間は、ま、お釈迦様もそういうふうに仰しゃっておられますよね。「この世は苦の世だ、苦の世界だ」とね、キリスト教ふうに言うと十字架を背負うて人間はおるんだ、とこう言うのです。もう難儀な事を十字架を背負うて、もうこの世は苦の世界だと、だからこの世で信心させてもろうてね、あの世では極楽行きの手立てを説いたのが仏教なんです。
私の言い方は、もうこの世で極楽行っとかなきゃ、この世で合楽世界を目指しとかなければ、又それを頂いておらなければね、あの世に極楽と言うのはない、この世で極楽を頂いておる者のみが、あの世で極楽に行けるんだ、合楽世界に行けれるんだ、というふうに私は説きます。いうならば和賀心の世界を目指す、和らぎ賀ぶ心の世界をめざす、ね。
お水が飲みたいなあー、と思うたらそこにお水があり、暑いな、と思うたらその部屋には冷房があり、寒いなあ、と思うたらそこには暖房がしてある、痒いなあ、と思うたらそこに孫の手がある、もうこんな極楽はないです。痒いと思う時にかいてもらう位極楽はない、どうもないと言うのが一番つまらんです。だからね、ならそれを難儀と言えば、今迄は難儀と言うて来たけれども、その痒い事なら痒い事がです、もうジッとしとらなならん、かく事も出けん、手が届かんち、言うなら地獄です。けどもそこに孫の手があり、そこを手の届くところにというなら、もうそれは痒い思いをしたもんでなからなきゃ分からん極楽があるです。ハア-、気持ちがよか、ち思うでしょうが、ね。
観念の中に、人間は十字架を背負っておるんだ、ともうこの世は苦の世界、苦の世だ、とお定まりのように思うておる、という事の中にです、それをいうならば、因縁とか罪とか、めぐりとかで、がんじがらめに括られておる者が、解放される程しの内容をもっておるのが合楽理念です。真の帯を教えて頂くのです、だから隣知らずの安産、もう産みの苦しみと決めておった観念の中にあった、その産みの苦しみ、いうものが取り去られて、隣知らずの安産のおかげが頂かれる、いやむしろ快感を覚える程しの、おかげが受けられる手立てが、合楽理念には説いてあるのです。
昨日研修の時に、その事をいろいろ研修した訳ですけれども、昨日、佐田恒行先生の方がお夢でしたか、お知らせ頂いた、というのは、今の箱崎教会の教会長先生、いわゆるお父さんが二メートルもあろうか、と思われるようなスルメを持って居られるお知らせを頂いた、と言うのですね。すると、こちらにはリンゴを持って居られる、まあそこは、大変詳しう説かんなりませんから、スルメの方なら皆さんすぐ分かるでしょう、スルメのお知らせ、ね、先ずイカ、それを干し上げたのがスルメです、だからね、自分がこげなこっちゃいかん、と言うことは改まってそれをね、いかん事は改まって、それを、いっちごスルメで、するめでして行かにゃいかん、と言うわけです。
そすと、そこにはスルメと言うのは、何時まで置いても悪くはならない乾物ですからね、いうならお徳になるね、も、長い長い、いうなら先生のお父さんが、ま、七十からなられるでしょうか、教師を拝命されて、もう長い間本当いっちごスルメで随分ま、苦労なさって、ま、お徳を受けられたという事になりましょうか、そして実を言うたら出けん、出来ない修行にいくらスルメと言うてもせずにはおれない、と言うような難儀な修行にお互い取り組む事が修行のように思うておったんですね、処がその事をお届けさして頂いたら、いかん事を、と今迄は御理解頂いたけれども、それを活かすと言う字を頂いた、生活の活という字ですね、生活の活というのは、いかす、と読むでしょ、それを生かす、それをむしろ活かしてゆくのがお道の、お道のと言うよりも、いま合楽で説かれて居るところの十全の道だというのですね。それをスルメと言うて取り払うものではない、むしろスルメで、いうならば改まって行かなければならないのは、形の事ではなくて心の上の事なんですね。
信心は日々の改まりが第一と仰しゃる、だから、その心の上の改まりが大事であると、形の上で私共が、これは罪になるであろう、これは御無礼になるだろう、と思うておった事はむしろ合掌して受けてゆく行き方を人間らしい生き方、と言うふうに、ま、説くわけです。いうならば、めぐりめぐりを乱発を、例えばお道の信心でもして来たね、まあ因縁とは違いますけれども、めぐりの為に苦しむ、めぐりの為に苦しむと思うておった、そのめぐりと言うのは、そういう事ではなくてね、天地に対するところの御粗末であり、御無礼であり、思い違い、考え違いがつもり積もって、前々のめぐりあわせで難を受けておると言う、教祖のお言葉がここに生々としてくる訳です。それでも自分の心で自分の良心の呵責と、いったようなものがですね、こげな事しょるけん罰かぶるじゃろうと、言ったようなものがある訳です。だから、それが本当にめぐりになってしもうて、それこそ、手かせ足かせになって窮屈なものになっておった。それを今、合楽ではむしろ御礼を申し上げて合掌して頂いていく、受けていく、と言う行き方になってきた。
信心の、いうならば、おかげの世界が広うなって来た、同時に深められて来た。十字架は今でも下される、因縁は今でも解けると言うおかげになって来た、この信心が分かり体得が出来、わかった時には、為には少し度胸がいる。お産の場合でも、今迄は腹帯をする事が普通のように、ま、せにゃならんように言われておった、それを取り外すと言うのですから、やはり度胸がいるのですね。しかし、それが真の帯であるとするならば、真の帯をしめ代えてさえおればです、いま合楽で言われておる事がはっきりと、又はすっきりと、自分の上に頂けていく事が出来るのです。
処が、自分でやっぱり十字架をかろうておかなければ、ほんなこっちゃ無いように思うたりね、もうこれは家の因縁だから、先祖代々からのやっぱ、こういう因縁を作って来とるとだからと言うて、それをやっぱり頂いとかなければ、本当のこっちゃないような思い方をかなぐり捨てる、という事は観念からそういう無観念になり、そして有り難い観念にとり替えられるという事は、やはり、だから本当は度胸がいる、容易いという事はない。いま合楽で言われる十全の教えと言うのは、そこのところの一線上にでらなければ、いうならば隣知らずの安産、と言うようなおかげにはなってこないですね。
いうなら、箱崎教会長先生が何十年かかってようやく、いうなら取り組んで来られた修行を合楽の、だから昨日、佐田先生達兄弟に話したこっじゃった。もうそこんところは、お父さんが長年修行して来なさったから、この上に立ったところの合楽の信心頂いていく事だよ、と言う事でございました。またお父さんがなさった修行に、また繰り返してせんならんような事は、いうならばもうこんな、いうならバカらしい事はない、と言うことだけれども、長年の一つの観念というようなものがね、そこに何処にかこびりついておってね、なかなか取り外す事が難しいような感じもするけれども、いよいよ合楽理念の実験実証をさしてもらおう、いわゆる、その実験に取り組ませて頂くと、成程成程と合点のいくような事ばかりですから、難しい事も成程成程で取り外す事の出来る、おかげに受けられるんです。
私は、今日の御理解の中からね、腹帯をするより真の帯をせよと、もう、いとも簡単に説いてありますけども、これは今の合楽理念でこれを頂きますと、大変な難しい事をこんな簡単に説いてあるなと、今日皆さんに聞いて頂いたような、いうならば十字架がかえって、私共のプラスになると言う頂き方なんです、素晴らしいでしょうが、ね、もうマイナスにしかならん重い苦しいものであったものが、軽々しい軽いものになって来ると、持っとった荷物をそこに置いておく程しに楽になるという、しかもそれがプラスになるという、おかげを頂く事が出来る信心が今、合楽では説かれておるですから、それにはやはり、なら合楽理念の絶対性というか、本気で合楽理念の実行を容易いところから、いうなら一つ一つ実験して実証して行っておりませんと、いよいよね、おかげの受けられるチヤンスを頂いておりましても、それをチヤンスを逃がす事になります。
私共も、自分で気が付かんなりに十字架を背負うておるような事はないでしょうか、その十字架をプラスにする、その生き方をね、プラスにするいうならば在り方をね、合楽では合楽理念として説いておる訳ですね、いうならば難あって喜べ難はみかげ、と悟れれる信心を、いよいよ身に付けていかなきゃならんですね。 どうぞ。